町長室から町民のみなさまへ20

町長室

町民のみなさまへ

町長の顔

2012年5月15日(火)

再び宮城県・岩手県の被災地を訪問して!

 昨年に続き5月の連休を利用して4月28日から5月3日にかけて被災地を訪問させていただいた。
 それは震災から一年が経っても死者数15,854名、行方不明者3,155名、仮設住宅や県内、他府県に避難、転居されている方は343,935名と過酷な日常生活を強いられています。
 3月11日の本町日曜議会を開催し、亡くなられた方への鎮魂の黙とうを捧げ、一日だけで終わらせてはいけないという私自身の思いから自家用車のハンドルを握りました。昨年のフェリーは苫小牧から青森までの航路のみ、今年は仙台港と八戸港が就航しており、苫小牧から仙台、仙台から八戸港を利用させていただいた。
 4月29日、午前10時仙台港に到着、そのまま松島海岸、瑞巌寺を経て石巻へ、港、埠頭のがれき堆積現場で車を降り、写真を撮り始めると警備会社の職員が駆け寄って来られ、「ガスが発生している」「外国人(?)などによる鉄の盗難防止」などの説明、被災現場は北方向へとアドバイスを受けました。
 その現場は防波堤が傾き、津波が乗り越え、山の麓まで激しく遡上した現場を思い起こすには十分の場所でした。被災した門脇小学校校舎のすざましい光景、柱だけのお寺、ドミノ倒しに遭遇したような墓石、泥まみれの人形と三輪車、その惨状のすざましさに涙が流れてたまりませんでした。
 グラウンドに咲くチューリップ、「全国の皆さんありがとう」の立て看板、はるかに見え使えなくなったのではと思える石巻市立病院や満開の桜、ただただ合掌することしかできませんでした。
 気仙沼海岸から津波と共に打ち上げられ、市街地にそのまま放置された船体、一万本以上の松が並んでいた陸前高田の海岸、市民の復興の願いでもある「一本松」、松に代わって海岸沿いに並ぶスーパー土のう、市民の苦悩が痛いほど伝わる陸前海岸は胸が裂けるような思いで去りました。

被災地門脇小

岩手県大槌町、碇川豊町長と固い握手!

 大槌町には一年ぶりに訪れました。震災時に加藤町長は職員と打ち合わせの最中、津波に流され遺体となって発見されました。一年ぶりの大槌町、あの保育所は、あの消防庁舎はと次々と思いがこみ上げてきました。
 地震で家屋は倒壊、大津波が町を襲い火災が発生し、町の大半が被災し壊滅的なまちと化した大槌町です。堤防を歩きながら一部の建物がそのままになっていましたが多くはがれきとして分別、処理されていました。まるで土台が残る荒野、この町をどのように復興し再生するのか、私は無性に新大槌町長にお会いしたくなりました。
 プレハブの庁舎、車が激しく行きかう庁舎、消防、警察がせまい用地に張り付いている敷地、私は受付に名刺を差し出し「町長とお会いしたい」「昨年も大槌を訪ね、町長に私信の手紙を送りました」と思いを職員の方にぶつけました。
 まもなくしてギシギシ職員が肩を寄せ合う事務所奥の町長室に案内され、町長を待ちました。しばらくして碇川町長が来られ「遠方からようこそ訪ねてくれました」と貴重な時間を割いてくれました。私は「何も土産はありませんが地元のハチミツ、少しでも疲れを癒してください」と差し出しながら次々と碇川町長に質問をぶつけ「私が大槌町の町長なら何をしてよいのか」「支援の職員も派遣できない、がれきを受け入れることもできない。何をお手伝いすればよいのか」「日赤への義援金だけでよいのか」「町民が毛糸を編んでたわしを500枚作った。受け取っていただけますか」等々です。
 碇川町長は力強く言いました。「東日本大震災を忘れないでほしい」「菊池町長のように町へ来て見ていただきたい」「瓦礫も貴重な遺品です。震災を風化させず鎮魂の森にしたいと、がれきに土をかぶせ広葉樹の植樹を始めました」「町民の皆様の支援はどんなことでも誠実にお受けさせていただきます」と。私は碇川町長の手をがっちりと握りしめ庁舎をあとにしました。途中、被災跡地に建てられた「復興食堂」に立ち寄り遅い昼食をとりながら、いつの日か「町民の」「町民による」「町民のための」、新生「大槌町」を訪ねたいの思いを膨らませて帰ってきました。

大槌町長と